昭和五十六年九月十八日 朝の御理解

 御理解第七十六節 「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人間の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」


 昨日は合楽会でございましたので、皆さんのお話をまあ聞かせてもらいましたが、本当に一人々がまあ、いうならば、今日一日の事で充分お話がでけられると言う事に私は感心もすれば、合楽理念に基づく生き方というのは有り難い事だなあというふうに思いました。
 まあとりわけまあ、今日は合楽会でもあるからね。本気で合楽理念に取り組ませてもらおうといったような、まあ気張ったようなものもあったかもしれませんけれどもまあ、とにかく、その事に焦点を置いて日々を生活していきゃ、確かに、合楽理念に基づく信心の稽古というのは、楽しいんだなあ、有り難いんだなあという事がわかります。とりわけ先生方も熱心な先生方が出てきとりましたが一人一人もう、帰りがけ久富さんと話した事でしたけども、やっぱしプロはプロですねというて話した事です その事にやっぱ専念しとられますからねという事でございましたが、そういうまあ日々の体験がよい事いうならば、おかげを受ける事、お気付けを頂く事それが実に楽しい有り難いという一日で、皆さんしめくくっておられる。その事を私は、すんでからここへ出て来ますからお礼を申さして頂いておりましたら、まあ『飛行機じゃぁないけれども、飛行機のように高く飛んでおるとにこう綱があって、それにぶらさがっておる』ところを頂いた。よう言われますよね、もう本気で神様に抱っこするとかおんぶするとかならまだいいけれども、あのぶらさがっておる程歩きにくい事はない、ね。その親なら親、子供をおんぶするとか抱っこするならこういいけれども、それにぶらさがっておるというのは歩きにくい。
 だからね、本気ではまってもう神様にこう委ね任せると言ったような、おすがりの仕方ならばいいけれども、ぶらさがられては困るというふうにね、まあいつも、まあそういうふうに申しますが、昨日はその事を頂いてから私は思ったのは、合楽理念に基づいてしかも私の信心が人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力自ずから湧くという、自ずから湧いておる力ですから、どんなにぶらさがられても私は平気だという事です。なら、皆さんの信心がね、どんなにぶらさがった信心であってもです、ね、こちらに力が、人力をもってしとる時にゃぶらさがられたらもう、大変困るね。
 本気で打ち込んで下さいというわけです。打ち込んでも只合楽に御縁を頂いて、只合楽の信心にぶらさがっとるという程度であってもね、これは私にとってはもう限りない、人力による事ですから何人どれだけぶらさがってもらっても、私は平気なんです。もう人力というものを抜きにしてますから、ね。そこで問題はね、あの今日の御理解でいうと人の難儀を助けるのが、有り難いと心得て信心せよとおっしゃるから、自分がぶらさがっておって人を助ける事は出来ませんよね。だから私は、よくまあ、自分がおかげ頂いて、おかげ頂いたらおかげ話しをして人にでも話して助けていこうと、そんなこっじゃないです。合楽理念に基づけば、昨日の方達の一人一人の発表が助かってしまっとるというわけじゃないけれども、合楽理念に基づいての生き方であったら、その事が人に伝えていく事が出来るお話しをしていけれるという事。
 但し、自分がぶらさがった信心では助ける事はでけん。勿論それは自分でも信心という重荷というかきつい信心が有り難い楽しいものになってこない。本当に皆さんの発表聞きよって一日一日が本当に合楽理念に取り組んで全ての事がですがよ、合楽理念に基づけばという生き方になったら、本当に楽しいんだなあと実験さしてもらや、必ずそこに実証が生まれてきておる、ね。だから皆さん、どうでも日々ね、合楽理念の実験実証して一日一日しめくくった時に、一日がならおかげ話しというか、体験談としてお話しのでけるような日々でなからなければ、あなたは合楽の信心にぶらさがっておるという事になります、ね。ぶらさがっとればきついです。やっぱどうか言われたら腹が立つ、どうか言われたらすぐシュンとする。ちょっとした事が腹が立つ。 これはね、そういう事があるんだけれども、合楽理念に基づいた生き方をしよるとそれが一つ一つ有り難い答が出てくるから楽しいです。だから、そういう助かり方、いうなら、ぶらさがっとるのじゃなくて、その飛行機のようなそれに乗り込んでしまっておくという事。私は高い飛行機のように飛んでおるという事は、合楽の信心が高度だという意味だというふうに感じました。いうならば、人力に見切りをつけきっておるのだと、ね。
 次に私の方の『若先生の家内が、一番長女の聡子を連れて、私共の共励会のそこの研修しとる所の横を何かこう、えらい早足で子供を連れてこう急いで横を通っておる所』を御神願に頂くんです。そしたらあのう「お母さん私はここで」と言うてから、共励会の中にすうっと入って共励会の話しをまあ、小さい子供だけど聞きよる所を頂いたんです。これなんかも私はすぐ感じた事は、親がね、子供の教育をするというけれども、子供の教育は絶対こりゃもう本当に、親子とも幸になる為にはね、合楽理念に基づく教育じゃなからにぁいかんですよ。どんなに素晴らしい教育の高尚な人が、子供の教育という事については頭を皆悩ましますが、それで、なら、人間が教育したのじゃ絶対おかげにならんです。
 例えば、子供の教育は合楽理念をもってする他はないという事になったら、子供の方がね、いわば共励会に入ってくるようになってくるです。そこには神様のいわば教導を受ける事が出来る。母親はほっといてよか。だからほっとくと、放任というのじゃなくてね、とにかく子供の教育は合楽理念を以てする他はないと、お母さんが合楽理念を以ての生き方が出来てさえおれば、子供は子供なりのいうならば教育は必ずして下さる。しかもその人間それぞれに持っておるその力というか、かくれた力といったようなものも、神様が引き出しながらおかげ下さる。これはもう絶対そうです。
 はあ自分がどこの大学出んなん、どこの小学、幼稚園からそのどこどこの程度の高い幼稚園に入れんならんといったような事を、思うたり考えたりする事ほど本当言うたら馬鹿らしい事はないです、ね。子供の教育は合楽理念を以て、こりゃ子供だけの事じゃないですよ。商売はいわゆる合楽理念を以てする他はないという商売さして頂いたら一日をしめくくった時に素晴らしい体験が生まれとるです。
 百姓は合楽理念を以てする他はないというのは、一日なら御用さして頂いたそのお百姓の仕事の中に本当に神様の働きをね、そこに感ずる事が出来るんです。
 私は昨日一昨日でしたか、山本さんのお届けを聞かせて頂きまして、もう今日は大変嬉しい事が二事ございましたというてお届けがあったんです。お茶の御用をしてくださる山本さんです。丁度総会の日に、久富繁雄さんが具合が悪くてみえとりませんでしたから、あちらにお見舞いに行かれたらしい。その事からでしたけれども、昨日お茶の山本さんの先生の所からお電話がかかってきた。それが先日お宅で頂いたお野菜がこのお野菜は違うとにかくおいしくて、何かいわれのあるそのお野菜じぁろうと思うてお尋ねしますという事じぁった。そしたら、久富さんの所からちしゃを沢山頂いておられたから、多いすぎたから先生の所へすそわけされたのらしいんですよ。
 私はいつもあなた方からお野菜を頂くあのお野菜が、このお野菜は違う違うと思うてあのう思うんですけれども、今度のちしゃは特にそのまあおいしかったというかどうかでしょうね。そりゃ実はこうして合楽で一緒に御信心の稽古をさせて頂いとる久富さんというてもう、お野菜とこの方はお話しがでけるという方なんです。
 その方がもうとにかく、神様に喜んで頂くというような思い一途でお野菜を作られるから、お野菜も立派にでけるしおかげ頂いていっておられますが、まあそれだからでしょうと言うたらもう、ほう、お野菜とお話しがでけるなんてんそげなこつですかと言うて感心された。どうりでおいしいはずだと言うのです。
 したらもう、お店しもうてからある所から又、電話がかかってきた。そしたら今日私はお宅で五百円のお茶を一本買わせて頂いた者ですけれども、その五百円位であんなにおいしいお茶を頂いた事ははじめてでしたが、間違っとりなさとったったっじゃなかろうかという電話であった。いいえ、間違っちゃおりません、ね。
 例えば、山本さんと言えば皆さんも御承知でしょうけれども、もうそれっこそ、もう、一切の事を合楽理念を以てする他ないといった生き方をされる方なんですよ、ねそういう実証が生まれてくるのですから楽しいでしょう。
 日々思いもかけない実証が生まれてくるのです。それに取り組んでおけば。昨日、梅山先生が発表しとりましたが,昨夜総会の時の話しをしてました。
 あの宝探しがございましたよね。あれは誰ん言うちゃなかった。担当者だけした知らなかった、ね。ピンク色とか緑とかいろいろ色があった。そしたらそれに担当しとったのが、秦先生だったそです。秦先生があんただけ言うから紫のつは飴いっちょ、ばのち言うたげな。紫じゃないピンク色のは飴一つしか貰われんばいち言うた。
 そりけん,ピンク色のつがそこにあったけんそれを取ろうと思うたばってん、飴いっちょじゃいかんけんと思うちから、他の色を探したとこう言う。そして横で坂根先生が一生懸命探しよるげなもん。坂根先生そけあるがち、こう言うたげなけんでその自分が一番はじめ探したピンク色を坂根先生が取ったそうです。そして、自分は他の色を取ったところがそれはあのう、まあ、坂根先生のはピンク色じゃあったばってんそれに十三ち書いちゃた。だから松竹梅というお神酒を一本頂いた。
 はあ、自分が本当に神ながらに目についたのを取っておきゃ松竹梅一本貰えたのにとまあ思うたという事。もう、私達のように日々合楽理念に基づいてというように稽古させて頂いておっても、そういう中にちょっと汚い心が動いておる。動いたら自分が当然頂けれるはずのつを取りそこなうおかげを頂きそこなうという事はこういう事ではなかろかという発表をしました。おかげは側まできとるのだけれども、ほんなわずかな汚い心出したばっかりにそれは人に行ってしまった。ねえ。坂根先生はまあ親孝行がでけたという喜んだというわけ、ね。
 そういう例えば、心のちょっとした動きにでも神様の働きははっきり見えるような生き方をせにゃいかんです。それが合楽理念に基づく生き方なんですね。
 それにはね、昨日先生方が、いうならば、本気でまあそれは先生方ですから、もうその事に専念しとるからすこしはあか抜けしとるというところもありましょうけれども、そういうあか抜けした合楽理念の実験実証者にならないとね、きついです信心がぶらさがった信心では。ぶらさがられたってこっちはかんまん、ね。どれだけ、ぶらさがっても、もう神様の力にぶらさがっておられるのだから、けどもぶらさがっておる者はきつい。本気でいうならば、その飛行機に乗り込み、飛行機というかね合楽の信心に乗り込んでしまわなければいけん、ね。そこにはどんな場合であっても合楽理念のに基づいて調子が出てくる。その調子に乗っての痛い痒いであったり、難儀であったりするのですから、そこが楽しい有り難い、いや、そういう時程素晴らしい体験が生まれる、ね。いわば合楽理念に基づくところのねお野菜つくり、合楽理念に基づくところのお商売、合楽理念に基づくところの子供の例えば教育というようにその事その事にいわば、専念させて頂いておるとね、そこにいうならば、リズムに乗った生き方が出来る生き方をです、さして頂くならばね、自分が助かるだけではなくて人にも助けていけれる働きとか力が生まれてくると思うです。
 なら、自分がぶらさがった信心ではぶらさがっとって人を助ける事はでけません。 どうでも、なら、皆さんがぶらさがっておられても私はかんまん。昔はぶらさがられたらきついと思いよったけれども、きつい事はない、ね。人力に見切りをつけとるから。だから自ずと湧いてくる人力ですから、人力というても神様のおかげで湧いてるる力ですからいくらぶらさがられても、こちらはかまいませんけれども、ぶらさがっとる者がきつい。ぶらさがった信心では、ね。本気で合楽の信心に乗り込むというか、頂きこんでです、それはなら、合楽理念に基づく日々である。
 一日一日がなら昨日、合楽の方達の発表じゃないですけれども発表ができる。良い事、悪い事について梅山先生の場合なんかはその、ちょっと自分の心の汚い心が動いたという事でしたけれども、それ程梅山先生の場合は神様がね、期待しとられる方だと思うんです。ちょっとした心の動きでも神様がそこにははっきりと、いうならば、景品をもって示しておられる。自分は確かに、飴一つであったけども、教えてやったその人はお神酒が一本ついとったとこういう。
 本当に自分に下さろうとするものを自分が頂けない。そこに神様が下さろうとする働きを頂きとめんでおる事が、との位多いかわからんというお話しでしたね。
 いよいよいうならば、合楽理念に基づく成り行きを尊ぶ、大切にさしてもらう、いわば、こういう時には合楽理念を以てすればという生き方を身につけて、はじめて今日の御理解人を助ける事のでけれる働きとか、力というものが得られるのじゃないでしょうか。人を助けられるという事がね、有り難いと心得て信心せよ。それには、自分が例えば、ぶらさがった信心ではそういう有り難いと心得て信心する事がでけません。人の難儀を助ける事ができる事を有り難いと心得て信心せよと、そこには自他共に助かっていくいうならばね、和道十全の道がはっきりしてくるわけでございます。
どうぞ。